嬉野流考えた人が徒然ながらにしゃべくるブログ

将棋の嬉野流を開発したおじさんの独り言です

主の将棋スペックについて その3

スペックについてあと2つで終了とします。

言うなれば嬉野年表(苦笑)

 

幼少時代:両親が共働きしていたので、アマ4段クラスの祖父より手ほどきを受けた(らしい)

幼稚園時代:5歳の時に佐賀県の大会にゲストとして来られていた故花村先生と二枚落ちで対局し、花村先生の2歩を指摘して勝った(らしい)

幼稚園の時に市の小学生大会に無理やり出場し優勝した(らしい)

小学校時代:何のご縁かは失念したが、女流の湯川先生と対局して勝った(らしい)

その後はオヤジの会社の将棋大会や家族将棋ばかりとなり、表舞台から姿を消してファミコンにハマる(笑)

なんかプロ入りの話(内弟子の誘い)があったらしいが、本人は全く知らず親が断った(らしい)

中学校時代:初めて県の中学生大会に出て全国大会に出場するも初の本州上陸で観光メインのつもりだったが、なんかそこそこ勝ってベストいくつかまで行って予定が崩れたことしか覚えてない(あまり記憶にない)

対戦格ゲーにハマりますます将棋から遠ざかる

高校時代:旅費タダの全国大会の旨味だけは覚えていたらしくまたも一回だけ出たが、結構早い段階で負けたハズ(あまり記憶にない)

地元のあらゆる格ゲーでほぼ負けなくなる(苦い 笑)

大学時代:苗字が特殊なせいか素性がバレて将棋部の助っ人に呼ばれ、毎回団体戦に出場することに

アマで高名な早咲さんと指す機会があったが、一年生の時に完膚なきまでボコボコにされて二度とこの人とは指さないと決意する(苦笑)

アーケードゲーム全般にハマり、シューティングゲームの名作である怒首領蜂二週クリアに魂を賭けるも、火蜂(二週目専用ラスボス)の最終発狂形態まて追い詰めるも、敵の体力あと数ミリを残して敗れ去る

 

この期間、記憶にある限りでは棋譜並べとか棋書購入等は一切せず、家族将棋オンリーでした。

 

思ったより長くなったので続きます。